Energy (Operation Ivy album)

12月 6, 2021
admin

1988年6月の短い米国ツアーから帰国した直後、バンドはカリフォルニア州アルカタのハンボルト州立大学でCrimpshrine、Isocracy、The Lookoutsと共にライヴを行なった。 ショーの後、バンドはLookout RecordsのオーナーであるLarry LivermoreとDavid Hayesと共に地元のブリトーショップに立ち寄り、将来の計画について話し合った。 LivermoreとHayesは、デビュー作Hecticに続くEPのレコーディングを提案したが、バンドメンバーは、フル・スタジオ・アルバムを作るつもりであることを明かした。 バンドはアルバムを録音する準備ができておらず、Lookoutがアルバムを出すのに十分な資金を持っていないことを恐れ、LivermoreとHayesはバンドにその決断を説得しようとしたが、無駄だった。 ギタリストのリントが後に言うように、「アイビー作戦を伝えることはできても、多くを伝えることはできない」

当初の目的は、ギルマン・サウンドマンのラドリー・ハーシュをエンジニアに迎え、閉店時間中にギルマン通り924番地で最低限のオーバーダブでライブ録音することであった。 「彼らはライブの電気と興奮を捕らえようとしたのだと思う。 「しかし、観客のいないギルマンは、平凡な音響の納屋のような建物でしかなかった。 防音設備も、アイソレーション・ブースも、コントロール・ルームも、そういう機能が欠けていたんだ”。 しかしレコーディング中、バンドはLintのギターにディストーションを使わせたくない、ベーシストのMatt McCallに “Blue Cheerか何かのような音 “のAmpeg SVTアンプを使ってほしいなど、Hirschとの意見の相違に何度もぶつかることになる。 エンジニアがオーバーダブを録音することを決めたため、セッションは「永遠に続くかのように」長引き、1曲の制作に何週間も費やされた。 リヴァーモアもレコーディングには不満で、”いくつかはルックアウトがやったものと同じかそれ以上だったが、他のものはただ…変だと感じた “と語っている。 1988年12月、メンバーはアルバム制作を続けるかどうか迷い、どうするか決めるためにバンド・ミーティングを開くことになった。 ゼロからやり直すことに同意したリバモアは、ハーシュをプロジェクトから解雇する仕事を任され、バンドは1989年1月にケヴィン・アーミーと共にサンフランシスコのサウンド・アンド・ビジョン・スタジオに行き、アルバムを再レコーディングすることになった。 このセッションでの録音は早く、バンドは1日でアルバム全体の基本トラックを完成させた。 「ライブ・レコーディングだったんだ。 休憩は全く取らなかった」とMcCallは言う。 「スピードを落としたくなかったし、絶好調だったからやり遂げたかったんだ」

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