聖書解説
1-19節
エレミヤ書1章1-3節。 ベニヤミンの地のアナトトにいた祭司たちのうち、ヒルキヤの子エレミヤのことば。 それはまたユダの王ヨシヤの子エホヤキムの時代にも、ユダの王ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりに来て、第五月にエルサレムを捕虜として連れ去るために来た。
ジェレミヤが預言者の職に召されたとき、彼は若者であった。そして彼は若い預言者として、若い王ヨシヤを助けるために神から遣わされたのである。 そのため、彼の公生涯はやや幸福に始まりました。 しかし、ヨシヤの死後、邪悪な王が王座につき、この泣き伏す預言者は、不従順で不屈の民に、何度も何度も主人の使いで送り出され、善を求める一方で悪をもたらすだけで、ある面では選ばれた特権であったのである。 聖霊は神のしもべの歴史の中で重要な日を記録するように注意深い。そして、あなたも私も、神が私たちを働かせ、神が私たちを召された奉仕のために特別な恵みを与えられた時を記録しておくべきである。 その時、主の言葉がわたしに臨んだ、「わたしは腹の中であなたを造り、胎内から出る前にあなたを聖別し、あなたを諸国の民に対する預言者と定めた」。 そして、私は言った、「ああ、主なる神よ!見よ、私は語ることができません。私は子供ですから」
彼はまだ若かった。そして、若者が神のための大使として呼ばれるとき、彼らは自分の上にある責任の重さを感じ、自分の経験の欠如と、その仕事への適合性の欠如を意識するはずである。 その自覚の中にこそ、託された仕事に対する適性の証があることが多いのです。 しかし、もし彼らが自分の弱さを感じないなら、神に助けを求めて叫ぶことも、神から助けを受けることもないだろう。 「ああ、主なる神よ!」若きエレミヤは言った、「見よ、わたしは話すことができない、わたしは子供だから」
エレミヤ 1:7. しかし主はわたしに言われた、「わたしは子供だから、言うな。あなたはわたしがあなたを遣わすすべてのところに行き、わたしがあなたに命じることは何でも、話しなさい」
さて、子供でさえ、彼に言われたことは何でも話せることが多い。言われたことを繰り返すことは、彼の能力を超えていない。 誰かが、「私たちは考える人が欲しいのです」と言いました。 自分の考えを述べるためではなく、主人のメッセージを伝え、主人が彼らに語ったことを私たちに伝えるために来た牧師が必要なのです。 その説教は、あなたが考えていることに過ぎないのですか、先生? では、あなたがどう思おうが、私の知ったことではありません。 私が考えることがあなたにとってそうであるかもしれない以上に、私にとってそれは何なのでしょう。 しかし、もしあなたが私のところに来て、「主はこう言われる」と言うことができるなら、私はあなたのメッセージに熱心に耳を傾け、それを受け取るに違いない。しかし、その言葉がこれ以外のものである牧師には災いがある!
エレミヤ1:8。 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すと、主は言われる」
王が外国の宮廷に大使を送る時、彼は普通一緒に行けないが、神の大使はいつも王と一緒である。 ああ、このような同伴者とともに、彼はなんという勇気を持つべきであることか!
エレミヤ1:9。
福音の宣教師となるべき若い兄弟たちよ、主がこのようにあなたの口に触れてくださること以上に望むことはないだろう。 私たちの何人かが覚えている古い時代、神的な人々は、聖霊が御言葉の説教者たちの「口、物質、知恵」になってくれるようにと祈ったものである。 それは決して悪い祈りではなく、主がしもべたちに正しい主題、正しい精神、正しい言葉を与えてくださるように、つまり、どのように語り、何を語り、どのような精神でそれを語るかを教えてくださるようにという願いだったからである
Jeremiah 1:9. 主は私に言われた、「見よ、わたしはわたしの言葉をあなたの口に入れた」
これは聖霊に遣わされた福音の説教者の真の姿、すなわち神の言葉をその口に持っている人の姿である。 前に、牧師は自分の考えを口にしてはならないと言ったが、ここでは自分の言葉さえ口にしてはならないことがわかる。 神の思いは神の言葉で伝えるのが最も良い。そして、私たちの教えに聖書が多ければ多いほど、それはより真実で、より神聖で、より力強いものとなるのだ」
エレミヤ1:10。 見よ、わたしは今日、あなたを国々の上に、王国の上に置き、根こそぎにし、引き倒し、破壊し、投げ倒し、建て、植えるようにした」
この神の使者には、なんという不思議な力があることだろう。 哀れなエレミヤはしばしば獄中にあり,しばしば死の門前にあったが,彼は国家と王国の主人であり,主は彼にそれらを根づかせ,植え,投げ倒し,建て上げる権威を与えられたのであった。 神は、御言葉を忠実に宣べ伝える者に、何と不思議な力をお与えになることでしょう。 スコットランドのメアリー女王は、自分に向かってきたすべての軍隊よりも、ジョン・ノックスの説教を恐れていたと言ったかもしれない。 また、主の言葉がわたしに臨んだ、「エレミヤ、あなたは何を見るのか」。 わたしは言った、「わたしはアーモンドの木の棒を見る」。 そこで主はわたしに言われた、「あなたはよく見ている、わたしはわたしの言葉を急いで実行する」。 主の言葉は二度目にわたしに臨んだ。 私は言った、「私は煮えたぎっているなべを見、その面は北の方に向いている」。 そのとき主は私に言われた、「北から災いがこの地のすべての住民に及ぶであろう」
カルデア人とバビロン人は大きな釜のように、煮えたぎり、沸騰し、煙と蒸気を諸国に送り出し、エルサレムを焦がして滅ぼす気でいた
エレミヤ 1:15-16. 見よ、わたしは北の王国のすべての家族を呼び集め、彼らは来て、その王座をエルサレムの門の入口に、またその周囲のすべての城壁に、またユダのすべての町々に、一斉に据えるであろう」と主は言われる。 私を捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手の作品を拝んだ者たちである」
神はエレミヤに、人々の罪のためにエルサレムを滅ぼそうとしていることを告げた。 それは彼らの罪の結果であり、特に人間が非常に陥りやすい偶像礼拝の罪の結果であったのである。 人を純粋な霊的礼拝、すなわち霊と真理による目に見えない神への礼拝に従わせることは、最も困難なことである。 彼らは、できることなら、何らかの外見的な形式に逃げ込もうとする。 聖餐式のパンそのものを取り上げて礼拝したり、出血している救い主の像を取り上げて、それを偶像としたりするのです。 何らかの形で、目に見えるもの、あるいは目に見えるものを崇拝の対象とするのです。 人は今日に至るまで、ある種の偶像崇拝に陥る。そしてこれは神を挑発する違反行為であり、主はその慈悲において、私たち全員を完全に晴らしておくように!
エレミヤ1:17。 あなたはそれゆえ、腰に帯をしなさい」
「エレミヤ、あなたの前には困難な仕事があり、あなたのために切り開かれた厳しい人生の仕事がある、『だから、腰に帯をしなさい』」-
エレミヤ1:17。 そして起きよ」
「待つことも、怠けることもあってはならない、『起きよ』」
エレミヤ1:17。 また、わたしがあなたに命じることを、すべて彼らに話しなさい」
「それを全く切り詰めたり、縮小したり、好ましくない部分を省いたりしないで、『わたしがあなたに命じることを、すべて彼らに話しなさい』」
エレミヤ書1:17。 彼らの前であなたを惑わすことのないように、彼らの顔を見て動揺してはならない」
私たちは神を恐れるあまり、他の誰も恐れてはならない。 「聖徒たちよ、神を恐れよ。そうすれば、他に恐れるものは何もない。 あなたの恐れをすべて天に送り、そこで止めさせるのだ。
エレミヤ書1:18-19。 見よ、わたしは今日、あなたを、全土に対して、ユダの王たちに対して、その君たちに対して、その祭司たちに対して、その地の人々に対して、防御の町とし、鉄の柱とし、煉瓦の壁とした。 彼らはあなたと戦うであろうが、あなたに勝つことはない。