皇帝と大公

7月 24, 2021
admin
 アルブレヒト大公

以前の記事で、ハプスブルク家が支配していた一群の土地に異なる言葉が使われていることを確認しました。

自尊心のある王家の子孫は、正式な肩書きなしで公の場に出ることはないでしょう。 しかし、皇帝や皇后、大公や大公夫人という言葉は、ハプスブルクやウィーンの歴史のどこに位置づけられるのでしょうか。 たくさんです。

たとえばフランツ・ヨーゼフ皇帝は、1848年のある公布の前に、次のようなリストを掲げています。

オーストリア皇帝、ハンガリー王とボヘミア王、ロンバルディア王とヴェネツィア王、ダルマチア、クロアチア、スラヴォニア、ガリシア、ロードメリア、イリリア、オーストリア大公、トスカーナ大公、ロレーヌ公、ザルツブルク、スティリア、カリンシア、カルニオラ、トランシルヴァニア大公、モラビア侯爵などなど・・・まだまだリストは終わりそうにないですね。

名刺はA4サイズだったはずです。

Austrian Emperor, Kaiser Franz Joseph I (LOC)

(Kaiser Franz Joseph, he of many titles.)オーストリアの皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世(Kaiser Franz Joseph, he of many titles. Photo courtesy of the Library of Congress)

でも、そんないろいろな称号を気にする必要はない。 ウィーンを訪れるなら、「皇帝/皇后」と「大公/公爵夫人」の2つだけ理解すればいいのです。

Emperor/Empress

(German: Kaiser / Kaiserin)

皆さんが目にするハプスブルグ家の有名人は、ほぼ全員が皇帝か皇后で、本人か支配者の配偶者として存在しています。 ハプスブルク家の皇帝(1806年以前)は、神聖ローマ帝国の正式な首長としてその称号を得ました。

フランツは、1804年(オーストリア帝国の正式な建国)と1806年(神聖ローマ帝国の解体)の間に二重皇帝になった幸運なハプスブルク家でした。

British Library digitised image from page 661 of "Geschichte der Wiener-Stadt u. Vorstädte"

(Emperor Franz I / II. Photo courtesy of the British Library)

フランツ2世(神聖ローマ皇帝)と皇帝フランツI(オーストリア皇帝)であったのですね。 そのため、フランツII/Iなどと呼ばれることもあります。

名前に付けられる数字は、明らかに、同じ名前を持つ前の所有者が何人いたかによって決まります。

15世紀当時、ハプスブルク家の君主であったフレデリックは、神聖ローマ皇帝、ローマ王、地方公爵という立場によって、フレデリック3世、フレデリック4世、フレデリック5世と呼ばれていたのだそうです。 彼にとっては楽しいことですが、他の人々にとっては紛らわしいことです。

一般に、ハプスブルク家の支配者の名前の後につくローマ数字は、皇帝としての地位を表しています。

Archduke / Archduchess

(German Erzherzog / Erzherzogin)

ウィーンで長く過ごすと、ここは大公(男性)と公爵夫人(女性)に多く住んでいると思うようになります。 彼らはいたるところで言及されています。

Statue of Archduke Albrecht

(Statue of Archduke Albrecht)

例えば、こんな感じ。

  • アルベルティーナ宮殿・美術館の前にある像は、アルブレヒト大公(1817 – 1895)

のものである

  • 美術史博物館の絵画コレクションは、フェルディナント2世大公の努力に負うところが多い。 (1529 – 1595)とレオポルト・ウィルヘルム大公(1614 – 1662)の努力の賜物です。
  • エリザベート皇后(1837 – 1898)は、大公夫人ソフィー(皇帝フランツ・ヨーゼフの母)と争うことで知られています

You get the picture.

この称号はほぼ独占的にハプスブルグのものだったんだよ。 たとえば、オーストリア公国をオーストリア大公国にする(だから、君主はオーストリア大公または大公妃の称号を持つ)など、一族が自ら考案したものです。

Maria Theresa

(オーストリア大公夫人、ハンガリー&ボヘミア女王、神聖ローマ皇帝マリア・テレジア。 画像提供:国立博物館)

ある時期から、皇帝の息子や娘も大公や大公妃の称号を受けるようになりました。 たとえばマリア・テレジアには16人の子供がいました。

ちなみに、王位継承者(とその妃)は、クロンプリンツまたはクロンプリンツェシン(皇太子・皇太子妃)でもありました。

ですから、たとえば皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后エリザベートの間には4人の子供がいました:

  • 大公夫人ソフィー・フリードリケ
  • 大公夫人ギセラ
  • 皇太子・大公ルドルフ
  • 大公夫人マリー・ヴァレリー

しかし肩書に悩むことはそれだけでは終わらないのです。

ウィーンの中心部にあるかなりの数の店や古い看板には、王室との重要なつながりの暗示とともに、「k. u. k. 」またはそれに類する名称が記されているのです。 以下はその説明です。

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